2010年5月13日木曜日

奥入瀬渓流

“おいらせ”は、奥入瀬でした。渓流の散策が心地よかったです。今回訪れたどこの観光地も、人が多すぎず、少なすぎず、丁度いいくらいでした。奥入瀬ではレンタサイクルを利用したのだけど、片道一車線の車道を走るので、サイクリングを楽しむという訳にはいかなかった。下り坂に見えるのに、必死でこがないと前に進まない不思議な坂が続いていた。 

 実は、自転車のベルを壊してしまった。試しにベルをならそうとしたら、つまみがへし折れて、道に落ちてしまった。返却所で謝ると、おばちゃんがちょっと嫌な顔をした。ごめんなさい。

八甲田ロープウェー

 八甲田は初夏と冬が混在していた。
道路も建物の屋根にも雪はないが、木々の根元や道ののり面は雪で固まっている。
 山頂行きのロープウェー乗り場にあるレストハウスで昼食をとることにした。帆立フライ定食の食券を買って席に着く。しばらくの間は周りのお客や外の景色を眺めながら、ついに本州の果て(に近い所)まで来たんだ等と落ち着いて待っていたが、待てども待てども帆立フライはやって来ない。気が付くと、お客は40人位いただろうか。でも、食べている人が、3組のお客しかいない。あとのお客はみんな文句も言わずに辛抱強く待っている。店の人はといえば、調理する人と配膳や食器の片付けとお客を呼び出す人の二人しかいない。おばちゃんが二人で頑張っている。セルフなので、食べ終えたお客が運んできたトレーやお皿がカウンターにどんどん積み上げられ、できあがった料理のトレーを置く場所がなくなっている。
 やっと帆立フライを取りに行く。これがまた、でかいのでびっくり!!思っていた帆立の3倍位の大きさだ。数も多い。あつあつでとても美味しかったので満足である。

 ロープウェーからの眺めも勿論気持ちよかったが、私が印象に残っているのは、ゴンドラの中の表示である。最大乗員人数101名とある。100名と101名の差は何なのか?しかもどう考えてみても100人も乗れそうにない。周りは春スキーを楽しむお客でいっぱいだ。背中にリュック、スキー板を持っている。手ぶらの幼稚園児なら100人乗れるかもしれない。そして、さらに不可解な表示が。最大積載重量4850㎏とある。これが101人分の重さだとしたら、やはりおかしいと思う。
 

羽田空港

 旅行日程も時間も順序がめちゃくちゃになりますが、思い出すままに書いています。またしても空港での出来事です。羽田空港の待合いロビーで、こんなアナウンスが聞こえてきた。「青森行き**時**分発のJAL**機(私達が乗る予定の機)の搭乗予約数が座席数を上回りましたので、搭乗予約の取り消しをする方を募集します……」
 ええっ、そんなあっ!!どうしてそんなことに??
アナウンスの続きでは、取り消した人には何やらかんやらの特典とかサービスをしますと告げられていたが。こういうことって、よくあるのかなあ?キャンセルを見込んで予め多めに予約を取るということ?

青森空港

 飛行機に乗るのは15年ぶり、いやもっと前になるかなあ、JALの機体模様も変わっていた。緊急時の行動の仕方、救命胴衣やシューターの扱い方等の説明が以前に比べて格段とわかりやすくなっていた。といっても、実際そのような状況が発生した時、落ち着いて的確に行動できるかどうか私は自信ない。
 青森空港の到着口の表示に、ロシア文字があった。ロシア語は全然分からないが、文字を見ればそれと分かるので、「へええ、ロシア人がこの空港によく来るのか」と妙に感慨深いものがよぎった。

東北旅行が終わった

無事帰郷しました。空の旅には渋滞がないはずと思っていたら、乗り継ぎの羽田空港で、どこかの航空機がオイル漏れをしたとかで、空港が一時閉鎖され、上空での待機を余儀なくされた。最終的に20分遅れの到着となった。帰路の飛行機は、終始よく揺れた。地面に付いてない乗り物はやはり苦手である。予定より時間がかかったことや、機内サービスが不十分だったことなどで、飛行機から降りた時、スチュワーデス(と呼んではいけないのだ、でも何故?これって変です)から乗客にあめ玉が手渡された。お詫びの印だろうか?焼き肉屋じゃないよなあ。

 青森空港で、出発が遅れるというアナウンスを聞いた時、とても不安だった。理由が天候不良なら仕方ないが、そうでない場合、いろいろ想像してしまう。事故だろうか、それともテロ?…何が起きるか分からない昨今の情勢なので。

 飛行機から連絡通路を乗客達が急ぎ足で空港の荷物受け取り場へ向かっている時、後方から女の人が人の波を縫うようにして焦った口調で「私の荷物がないんです!!」と叫びながら通り過ぎて行った。誰か手荷物を間違えたらしい。その人は空港の人に事情を説明していたけど、ちゃんと自分の荷物を受け取れたのだろうか?よく似たカバンや、土産物の袋等が多いから、気を付けないといけない。特に、預かり荷物の場合、キャスター付きのスーツケースは、どれもこれも本当によく似ている。あのベルトに乗っかって運ばれてくるスーツケースを見ながら、ふと思った。この装置を見て回転寿司を考案したに違いないと。

東北旅行プロローグ

ガソリン代急騰の折、しかも、鳥インフルエンザ発症の十和田湖に向けて、レンタカーで旅行します。
往復のジェット機にトラブルが発生するかも。ホテルは連休価格の破格的宿泊費用プラン、無事に帰って来られるだろうか?
せっかく始めたブログ、あと何回投稿できるかなあ。

2010年5月11日火曜日

ヨーロッパ紀行 エピローグ

 17日間プラス1日(あれっ?ほんとにプラス1日でよかったのかな?機内泊が香港泊に変わっただけなので、やっぱり17日間でいいのかな?分からなくなりました)の旅の間、どこへ行っても日本人観光客は出没していました。でも、久しぶりの日本は、日本人ばかり、日本語ばかりが聞こえてくるのは当然だけど、無事帰って来た安堵感と脱力感のようなものが体中を巡っていました。

 もう、どこの店に入っても、チップを渡す心配をしなくていいんです。チップは、慣れてきたとはいえ、やっぱりめんどくさいです。羽田空港からタクシーに乗った時、これから先の数時間で、何が起きようと、間違いなく、安全に、確実に、我が家に戻れるはずだ、という妙な確信がもてました。

 岡山へ戻ってから、しばらくの間は、荷物や土産物の整理をしたり、残ったドル紙幣を円に換金したり、写真ができてからは、家族や友人に見せたり……岡山での日常生活という「現実」の中で、思い出に浸る時間が結構あったように思います。

写真ですが、ローマ、ナポリは快晴に近かったせいか、空の青さも周りの景色も驚くほど色鮮やかに写っていました。私の父親は仕事でカメラマンをしていたのですが、私の安物カメラでこれ程きれいに撮れていたことに父は驚いていました。

 外国旅行がブームになり始めた頃だったように思います。ただ、私の周りでヨーロッパに行ったことがある人は、当時あまりいなかったみたいです。父は、自分の娘をヨーロッパに行かせたと、親戚や知人に自慢していました。

 そう言えば、ドルを円に換える時、タイミングが悪くて、少し損をしたように記憶しています。あの頃は、確か1ドル260円から280円くらいだったと思います。
 ところで、初めてドル紙幣を手にした時、どんな感想をもたれましたか?私は、「なに、これ?ちっせー!」でした。まるで人生ゲームか何かに使うおもちゃのようだと思い、絶対日本の1万円札(もちろん聖徳太子の旧札です)の方が遙かに美しく、貫禄があると決めつけていました。アメリカも大したことないなあ、なんて大それた感想を抱いたものです。ドル紙幣には正直言って失望しました。

 そうそう、パリの医者に払った医療費を保険で返してもらう手続きも必要でした。実を言うと、お金が戻ってくるのか不安でした。黒人のドクターは、診断書とか領収証のたぐいを私が要求すると、持っていたメモ用紙のような小さい紙切れに、フランス語かドイツ語かわからない短い言葉をササッと書いただけだったんです。こんなもので請求できるのだろうかと半信半疑でした。結局、医療費の他に、少額ではあったけれど、慰謝料も支給されました。あのペラペラのメモ用紙が使えたのでした。
 
 旅行社の人は、このツアーを企画してから、医療保険を適用するのは、私が初めてだと言いました。
 香港で払ってないと指摘された空港税のことを聞かれたらどうしようと懸念していましたが、何も聞かれませんでした。ああよかった!

渡航前から嫌な思いをする出来事が続き、痛かったり、怖かったり、気分の悪いことや、期待はずれもあったし、いっぱい恥もかいたし、人に迷惑もかけたし、よくもまあこれだけ我慢のできたこと、と我ながら感心してしまいます。
 「邦人女子大生、古代遺跡で行方不明に」とか「ミラノでマフィアにさらわれた?」等の記事にならなくて何よりです。
 
 それでも、トータルでは、「楽しかった!」 という感想になるんですね。あれだけ多くのトラブルに巻き込まれたにもかかわらず、です。

 私にとっては、夢のような17日(プラス1日?)でした。インターネットも携帯電話も勿論存在しない時代ですし、旅行中、日本からの情報はほとんどなかったですね。(その必要感もなかったし、情報が得られないことの不都合をこれっぽっちも感じませんでした。)
 
 自分の周りで起きるすべての出来事が、時間的にも空間的にも完全に閉ざされた[非日常の]世界だった、あとから振り返るとそのように感じられました。一度だけ、現実に戻った出来事がありました。ある時、誰かが「インド航空機の事故」を報じる新聞記事を見つけて、ツアー仲間に見せていました。「へええ、事故があったんだ!」と、周りで小さなざわめきが起こりました。この時ばかりは、間違いなく私にとっての「現実」がそこにありました。この報道が当時の日本でどのように扱われたのか、確認もしていないのだけど、ツアー客の家族達は、さぞかし心配し、慌てたのではないだろうか?

 今回このメールを書いている時、ヨーロッパの地名や観光地について何回かパソコンで検索することがありました。例えばロンドンの大英博物館です。入館料が本当にただだったのか、もしかしたら、私達がうっかり不正をしていたのではないか?というような疑惑がわいてきて……でも、現在も、入館料は無料ですとあったので安心しました。それから、あの悪夢のようなボンベイは「ボンベイ」と入力すると、「地名変更→ムンバイ」が表示されました。ドイツは当時西と東に分かれていたし、パンナム機は何年も前から空を飛んでいません。私達がフェリーで渡ったドーバー海峡(英仏海峡)には、今ではユーロトンネルという海峡トンネルが開通しているし、今ヨーロッパを旅行する人は、いろいろ便利になっていると思います。日本からイタリアまで、現在は13時間かかるそうです。

 お金は、ユーロ通貨になるのかなあ。よく知らないけど。国境を越えて通過が変わるたびに換金していたけど、それも必要ないのかも。
 でも、思い出すと、どれもこれも今にも破れそうなぼろぼろのイタリアの紙幣や、ミニハンカチぐらいの大きさはあるスイスの紙幣がとても懐かしいです。観光客が手にすることは、もうないのだろうか?そして、今でもドル紙幣は、こども銀行のお金みたいに小さいのだろうか?

 30年間で、日本も世界も変わってきたんだ、という思いが、少しのせつなさと共に実感できました。

 旅行の写真をいっぱい撮っていたので、それぞれに短いコメントを入れて、きちんとアルバムに整理したのは確かなんですが、高校時代の写真も含めて、何回かの引っ越しの間に行方不明になってしまいました。絶対どこかにあるはずなんですが…
 
 旅行のしおりや観光地のパンフレット等の資料が見つけ出せていたら、もっとずっと詳しくお伝えできたのですが、辿々しい記憶をつなぎ合わせてきたので随分読み辛かったのではないでしょうか。でもまあ、こんなもんかな。それでも、埋もれていた記憶がいろいろとよみがえってきた、そのことは確かですね。いろいろ思い出しながら書き綴っていくのはとても楽しかったです。
 どうもありがとう。

            一応、「完」です。また思い出したことがあれば、お知らせします。