2009年10月17日土曜日

ヨーロッパの乗り物

 基本的にはバスでの移動が殆どでした。ところが、イタリアでのバスの旅が一番長かったはずなのに、イタリアのバスがどんなものだったのかが全然思い出せないのです。そうそう、イタリアでは、ピサの斜塔にも立ち寄りました。中に入って外周?というべき所をぐるっと一周しましたが、下向きに傾いている側は、さすがにスリルがありました。毎年何人かの観光客に悲劇が訪れるそうです。

 ドイツでは、ベンツのバスに乗りました。これが、でっかいバスで、シートに座ると、私は、足が床に届かず、足をぷらぷらさせていました。アウトバーンという制限速度なしの道を、ベンツのバスはぶっ飛ばして走っていました。このバスで、スイス、リヒテンシュタインなんかの国境を越えたと思います。

 パリへは、鉄道の旅でした。どこから乗ったのかがまたまた不明ですが、列車がパリ駅に到着したのは確かです。ヨーロッパの列車は、ご存じかとは思いますが、3人掛けのシートが向かい合わせで、6人ずつの個室になっていて、通路は片側のみです。パリ行きの列車に同乗していたカップルは、私達がいてもおかまいなく、ずっといちゃいちゃしていました。

 パリからロンドンへは、ドーバー海峡(英仏海峡)をフェリーで渡りました。この時はデッキに出ると、寒くて震えていました。海は、もやがかかっていて、周りの景色があまり見えませんでした。

 対岸のイギリスに着いてから、ロンドンのビクトリア駅まで再び長い列車の旅が始まりました。何時間くらい乗っていたのかなあ。車窓からは、ずっと田園風景が続いて見えていたと思います。この間、同室の私達はトランプで「大貧民」をぎゃあぎゃあ言いながら遊んで過ごしていました。こういう時は、個室でよかったですね。

 パリもロンドンも終日自由行動でした。地下鉄に乗ったり、ロンドンではオースチンのタクシーにも乗ってみました。あ、2階建てのバスにも乗りました。ロンドン市内のどこで乗ってもバスの前面に表示されている数字さえ間違えなければ、ホテルにたどり着けるという便利なシステムのおかげで、ロンドンでは迷うことがありませんでした。私達が一番よく乗った2階建てバスは、9番バスでした。

2009年9月10日木曜日

バッキンガム宮殿

さすがに世界的観光地だけあって、もの凄い数の観光客が訪れていました。

 小雪が舞う寒い中、門の外から近衛兵の交代儀式を見ました。
 衛兵さんの、お馴染みの赤と黒のコントラストが美しい制服姿を私達は期待していたのですが、あれは夏服なんですね。この季節は、グレーのコート姿でした。初めて知ったこの事実!!周りの日本人観光客達の、がっかりした様子がとてもよく伝わってきました。だって、ガイドブックのどこにもそんな記述はなかったし、冬服があるなんて、想像もしていませんでした。
 
まあ、普通あまりお目にかかれない光景を見ることができたという意味では、貴重な体験だったかな。
 
ちなみに、パソコンで検索したら、冬服の近衛兵の画面もちゃんと出ていました。
            

2009年9月7日月曜日

ルーブル美術館

 あまりにも有名な「ミロのヴィーナス」は、美術館の入り口近くの通路に普通に置かれていました。普通に、というのは、変な言い方ですが、特別な展示ではないという意味です。うまく表現できませんが。いろんな像が並んでいる中に、「ミロのヴィーナス」があるという感じですね。ヴィーナスの後ろ姿を初めて見ることができました。

 それに引き替え、対照的だったのは、ダ・ヴィンチの「モナリザ」 です。少し前に「モナリザ」は、盗難事件に遭い、大騒ぎだったんですね。無事戻ってきて、見られたのはよかったです。でも、ガラスケースに厳重に納められていました。ガラスの反射でやや見えにくく、思ったより小さかったです。

2009年9月5日土曜日

明るいイタリア

 17日間(飛行機内での機内泊があるので、正確には15日位かな)のヨーロッパで、ローマ、ナポリ、ポンペイは快晴でした。気温も3月にしてはやや暑いくらいでした。
 
 他の街、フィレンツェ、ミラノ(イタリア)、ハイデルベルク(西ドイツ)、ルツェルン(スイス)、パリ、ロンドンは、少し陰った感じでした。天候のイメージそのままで、イタリアはどこまでも人々が明るかったです。特に男性は、言葉が通じないことが分かっていても、よく声を掛けてきます。

 ミラノでは、男性二人が私達の両側から挟むようにして近づき、「案内しましょう」と声を掛けるのですが、彼らも道を知らなくて、他の人に尋ねているんです。シチリア島から来た警察官だと言っていました。彼らも旅行者だったんです。どうして道を知らないのに、案内ができるというの??!!
 たまたま同じツアーの男子学生とばったり出会ったので、事情を話すと、「マフィアかもしれないから、逃げた方がいいよ」と言われました。ええっ、まさかねえ!!
 
 それにしてもイタリアの男性は、女性とどういうつきあい方をしているのだろうか?

2009年8月27日木曜日

ポンペイの悲劇

イタリアでは(ローマでは?かもしれない)、外国人ツアーには必ずイタリア人のガイドを同行させなければならないという規則があるそうです。という訳で、私達のツアーには、クラウディオさんという男性がずっと一緒にいました。彼はポール・モーリアそっくりの素敵なイタリア人でした。でも日本語が全然分からないので、ガイドとしての仕事はしてなかった、と思います。たった一つのことをのぞいては。

そして、もう一人の現地ガイドは、日本人のHさんです。例の、縦列駐車で車をぶつけていた人です。
彼は、すっかりイタリアに馴染んでいる様子がその風貌からも感じられました。濃い髭を蓄えていて、カンツォーネでも歌ったら似合いそうでした。

 その日は、ナポリ、ポンペイのオプショナル・ツアーでした。ポンペイの遺跡をご存じでしょうか?中に入ると、まるで巨大迷路のように石の道が入り組んでいて、一度迷うと二度と出られないし、もし誰かが迷子になったら、見つかるまでガイドや添乗員が捜さなければならないので、絶対はぐれないようにしてくださいね、と添乗員のS氏から何度も言われました。

 しかし、悲劇は起きたのです。

「ここが古代ポンペイの街の横断歩道です」と説明された後で、「横断歩道を渡るところを写真に撮ろう」と言って、私とM 嬢は、お互いに写真を撮っていました。その間、ほんの数秒しか経ってないと思っていましたが、気が付くと周りに誰もいないんです。でも、少し歩けば見つかるだろうと気楽に考えて、二人でうろうろしていましたが、どこをどう曲がって歩いても人影はなく、あれほどS氏から念を入れて言われていたのに、私達は古代遺跡で迷子になってしまったのです!!
青ざめた私とM 嬢は、何とか自分達の一行を見つけようと必死でした。しばらくして、数人の日本人グループを見つけ、よかったあ、見つかったあと喜んで彼らに近づくと、知らない別の日本人ツアーの一行でした。また二人で歩き回り、今度は、さっきとは違う別の日本人の学生ツアーグループに出会いました。今度は、そのツアーのガイドさんらしき人に、事情を話し、とりあえずそのグループに入れてもらうことにしました。そのツアーの学生達の、「あいつら、迷子になったんだ」と言いたげな表情と侮蔑の冷たい視線をもろに感じながら、私とM 嬢の二人は、落ち込んだままポンペイの遺跡を歩いていたのです。

 結局、ツアーのガイドさん同士で連絡をとってもらったおかげで、自分達の一行に無事戻ることができました。ああ、みんなに大迷惑をかけてしまいました!!

ところで、私達二人がいなくなったのを、最初に気付いたのは、イタリア人ガイドのクラウディオさん、つまりポール・モーリアだったんです。何も仕事をしていない訳でははなく、ちゃんと人数確認という重大任務を彼は遂行していたのです。

M 嬢と二人で彼にお礼を言うと、彼は、全然私達を責めることなく、にこにこ笑っていました。

ありがとう、ポール・モーリア!!

2009年8月26日水曜日

外国語

 旅行のガイドブックには、「イタリア人はとても陽気で人なつこい」と書いてありますが、まさにその通りでした。私達が簡単なイタリア語をたった一言言っただけで、彼らは歓声をあげて大騒ぎするし、街でもどこでもアベックはいちゃいちゃしてるし、しかもそういう時に、こっちへ向かって男性が手を振ったりするんです。泊まったホテルのフロントにいた男性従業員は、「ジャパニーズ・スモール・ベルが欲しい」と私に英語で言ったので、それは「鈴」のことだと思い、小物ケース(携帯用裁縫道具)にぶら下げていた小さい鈴をはずして彼にあげました。彼はお礼?に、フロントにあった白い紙を折って小舟を作ってくれました。
 ホテルの従業員から持ち物が欲しいと要求されたのは、後にも先にもこの時だけです。

 私の大好きな映画「ローマの休日」の舞台となった所もいくつか訪れました。そのひとつであるスペイン階段では、オードリーがしたようにアイスクリームを食べました。最近テレビで知ったのだけど、今スペイン階段では飲食禁止になっているんですね。観光客は、模型のアイスクリームを食べる格好をしていました。それは、ちょっと味気ないなあ。

 このメールでバチカンのサンピエトロ大寺院のことを書いている時、インターネットで検索してみると、現在は、サンピエトロ大寺院では、観光客等の服装を厳しくチェックしているそうです。短パンやノースリーブは入場できないとか。昔はそんなのなかったのになあ。(夏ではないからそんな格好の人もいなかったけど)
 あの頃は、平和で穏やかな時代だったのかも、最近世界中で多発している事件とか事故を目にする度に、そんなことを感じてしまいます。

 ところで、イタリアでは英語が通じないと前書きましたが、ヨーロッパは、ホテルの中とイギリス以外は、英語が殆ど通じませんでした。フランス語はだいたいどこでも通じたようです。むこうの人は、まず、「フランス語が話せますか?」とフランス語で聞いてきます。旅行中何回も聞かれたので、このフランス語だけは聞き取れるようになりました。
 
 パリで病気になった時、ホテルの人は英語のできる医者を呼んでくれたんでしょうね。もし、フランス語の医者だったらお手上げだったと思います。とりあえず相手の言うことは理解できたので大分助かっていたと思います。
 

2009年8月23日日曜日

初めてのローマ

バチカン市国には、荘厳なサンピエトロ大寺院があり、その隣の建造物の前で制服姿が決まっている二人の青年を見つけました。そこは美術館だと思ったので、私達3人は、中へ入ろうと門から通路へと向かったのです。すると、二人の青年は、両手を広げ、私達の入場をやんわりと拒みました。あら、私達は観光に来たんですよ、と言いたいのですが、英語は通じないんですねえ。どうしても通らせてくれないので、入館は諦めました。それならせめて写真でも、ということで、無理矢理一緒に撮らせてもらいました。そこは美術館ではなかったようです。日本に帰ってから地図で調べたら、兵士の寄宿舎でした。それにしても彼らの制服と帽子、カッコよかったなあ。

 古代ローマの遺跡近くで、卑猥な日本語を喋る老人がいて、私達を呼ぶので側へ行くと、カメオが安いから買わないかという意味の片言の日本語で話しかけてきました。
 「イチマンエン、ヤスイヨ」の言葉に怪しいとは思ったのだけど、H 嬢は「これ、安いと思わん?」と反応し、結局3人共イチマンエンのカメオを買ったのです。日本円の一万円札が使えるという誘惑に負けた、とも言えます。
 
 でも、これが,イタリアでの悲劇の始まりでした。

 翌日、私達ツアーの一行は、ローマ市内一日観光のオプショナルツアーに参加しました。そしたら、昨日行ったばかりのサンピエトロ大寺院がコースに入っていました。まあ、いいんだけどね。
 
 その日か次の日かのオプショナル・ツアーでは、カメオ工場の見学が入っていました、私達が怪しい商人から買ったイチマンエンのカメオの話を添乗員のS氏にすると、「それは騙されていますよ」と言われ、バスの中で、「こんな風に騙されて買った人がいるので気を付けましょう」とみんなの前で暴露されてしまいました。
 
 カメオ工場で見た本物のカメオは、イチマンエンのものとは比べものにならない位、精巧で美しかったのはいうまでもありません。
 イチマンエンのカメオは、決して偽物ではないのだけど、彫りが粗雑で、例えて言うなら、夜店で売っている子ども用のおもちゃみたいなもの、だそうです。

2009年8月22日土曜日

ローマの空は青かった

 ローマの空港に着くと、添乗員のS氏はインド機の中でこう言いました。「みなさんはたぶん今、夕方のような感覚だと思いますが、ここローマは今、朝です。これから一日が始まりますので、そのつもりで行動してください。今寝る人は、明日の朝まで寝てください。」
 
 そうなんだ、ヨーロッパの朝が始まったんだ!インド機から降りた私達はその後どこでどうしたのか、よく思い出せないけど、とにかく荷物はホテルに預けた?でしょうね。朝なのにチェックインできたのだろうか。細かい疑問が…
 とにかく自分達で夜まで観光しなければならない。

 このツアー、基本的には、ホテルとその朝食だけ確保されていて、後は自由行動だったんです。といっても、幾つか代表的なオプショナル・ツアーが組まれていて、それに参加すればそんなに迷う心配はありませんでした。ただローマ到着の初日は、オプショナル・ツアーはなかったので、自力で観光するしかないんです。
 
 私はM 嬢、H 嬢と3人でタクシーに乗り、バチカン市国へ向かいました。「汚いタクシーじゃなあ」とか悪口言い放題で乗っていました。
 
 その当時、日本ではスーパーカーブームで、イタリアにはかっこいいスポーツカーがいっぱい走っていると期待していました。ところが、何と、街を走っている車はどれもボロ車ばかり。期待はずれでがっかりです。ホントに激しいボロですよ。傷やへこみは当たり前、ドアのちぎれそうな車、段ボール紙にマジックで数字を書いただけのナンバープレート装着車も堂々と走っていたし。駐車場でぶつけても平気だし。
イタリア現地での日本人ガイドのHさんは、縦列駐車で止めていた自分の車を動かす時、私達の目の前で、前の車にガーン、後ろの車にもドーンとぶつけていました。日本では考えられません。添乗員のS氏が言うには、免許取得の教習中に坂道発進がないとか。私はその時未だ運転免許を取ってなかったので、それがどういう事態なのかよく飲み込めてなかったのですが、驚きの事実ですよね。

 ローマの空はただただ青く、陽光がずっと眩しかったです。何せ、久しぶりに見る明るい太陽と青い空でした。

2009年8月20日木曜日

悪夢のインド航空

ええっ??インド航空というのがあるん?その時初めて知りました。羽田空港へ向かう前に東京のホテルで前泊だったんです。初めての東京は、空が空色ではなく、何というか、淡いピンク色と黄色が混じったような色でした。その後何度か東京へ行きましたが、初めて見た東京の空が一番汚かったですね。当時、泊まったホテルの近くで「毒入りコーラ殺人事件」というのがあって、その関連の立て看板が目に付きました。
 
 翌朝、羽田空港へ。私は、クラスメートのM子さんとH子さん、以後彼女達をM 嬢、H 嬢と呼ぶことにします、の3人で行動を共にすることに。
 
 羽田空港で搭乗手続き等した後、待合室でツアーの同行学生達と初めて合流したわけです。この時私達は、自分と同じ大学の学生が一番多かったので、あまり緊張感もなかったんでしょうね、みんな岡山弁丸出しで喋っていました。「~じゃが」 「~じゃろう」 など… これを耳にした関西や関東地方の男子学生から「君たちのあの言葉は…女の子の言葉とは思えなかった…」と後になって指摘されました。おお、岡山弁の威力は相当なものらしい。
 ツアーの参加者名簿が配られました。やはり、というか、1,2年生が圧倒的に多い!女子学生では3年生が一番年長者ではないですか!
当時の私達は、とにかく大学3年というのは、もうオバサンの部類だったんです。今から思えばとんでもない話なんですが、もはや10代ではない、というのが決定的な事実なんですね。
 
 どこの空港でも中途半端に待つ時間がありますね。搭乗前にイラン人の男性と目が合ってしまい、自称イラン航空のパイロットだという二人連れが私達に声を掛けてきました。私たち女子学生何人かにコーラをおごってくれました。
 
そして、いよいよ搭乗です。初めて乗るジャンボジェット機にわくわくしました。初めての海外旅行、興奮もするし期待感に溢れてjました。でもでも、離陸後数時間で私は絶望感に近い精神状態に陥りました。
 とにかくエンジン音がうるさいんです。そのうち耳が痛くなり、耳が聞こえなくなったんです。それと飛行時間が南周りだと全部で30時間以上かかるんです。ということは、丸一日以上飛行機に乗っているわけで、
その間身動きできない状況だし、機内食はまずいし、だいたい食事の時間が予測できない、夜の次がまた夜なんです!うるさくて寝られない、トイレの鍵は壊れているし、スチュワーデスさんは美人だけれど愛想はよくないし、ああ、もう飛行機で海外旅行なんかするんじゃなかった、という後悔さえしていました。まだ始まったばかりだというのに、いえ、始まってもないのに…
 
途中インドのボンベイで給油のため降りることになり、やれやれと思いきや、これがまたボンベイの空港がとんでもない曲者で、目の前を大きなハエの大群が飛び交うし、何をすることもなく、ただじっと座っているだけの意味のない待ち時間が2~3時間ありました。その間ずっと耳が痛くて、パリで病気になったのが最悪と言いましたが、肉体的にも精神的にもボンベイの空港で味わった苦痛の方が遙かに大きかったですね。
 
 ボンベイのトイレではもう少しで監禁されそうになりました。トイレの洗面所の周りには、白い服を着た女の人が数人いて、私が用を済ませ、手を洗ったら、横からさっとタオルを差し出してくれるんです。まあ、なんとサービスのいいこと、と喜んだのもつかの間で、その後彼女は私の手を掴んだまま離してくれないんです。チップを要求するんです。ええっ、ここでチップを??!!ドル紙幣しかないし、小銭は日本円しか持ってないので100円玉を渡そうとすると、受け取ってくれません。だんだん相手の顔つきが厳しくなって何かやばい雰囲気に。でも何とか逃げなければ、無理矢理100円玉を握らせてやっとのことで脱出できました。もう、なんなん!!ボンベイは大っ嫌いです!
 
 再びインド機に乗り、ボンベイから離陸、結局いつ寝たのかもわからず、夜と朝と昼がどういう順に来たのか、意識が曖昧なままの旅が続いていました。
 
 体調がだいぶ回復してから、搭乗前に話しかけてきた例のイラン人が隣に座ってきたので少し話をしました。彼は私と同じ21歳というが、中近東の男性特有の濃い髭のせいかずっと年上に見えました。彼は、私に「君は21歳には見えないよ、12歳だ」と言うんですね。ちょっとそれは酷い話ですね!それでもおかしな会話をすることで気が紛れてインド機の不快感が少しは解消された感じでした。あ、そうそう、そのイラン人はシャルツさんというんだけど、彼はこんな質問をしました。日本人が何か話をする時いつも始めに「あの」と言うが、あの「あの」はどういう意味?と聞かれました。何か痛いところを突かれた感じがしました。外人さんには気になる言葉だったんですね。あれから何年も経ってから湾岸戦争が起き、不安定な政治情勢が続いているけれど、シャルツさんともう一人のイラン人アリさんは元気でいるのだろうか。
 
 ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に到着し、長かったインド航空の旅がやっと終わりました。

思い出して、ヨーロッパ プロローグ


 もう30年以上前の話になるので、忘れていることの方が多いのですが、大学3年の春休みは、こういうツアーに参加できる最後の機会だと思っていました。4年になると卒論とか就職のことでゆとりがもてなくなると分かっていたので、思い切って参加することにしました。
 まず、旅行前のいろんな手続きをするところから…
羽田空港から南回りの航路なので、疫病の予防摂取を受けなければいけません。それも2回も。今でもこんなことをするのだろうか?聞いたことないけど。とにかく注射は嫌ですね。それから肝心の旅費の調達です。子どもの頃からお年玉等を貯めていたお金を銀行でおろす時、窓口の女性行員さんにもの凄く不審の目で見られました。「何に使うんですか?」としつこく尋ねられ、「旅行です」と答えると「この金額だと海外ですね?」とどこまでも疑ってくる。挙げ句の果てに家に電話を掛け、親に確認をしていた。私が子どもだと思っていたのだろうか。それにしても凄く感じ悪ーい!
 それからパスポートを取りに行った時、窓口の女の人は周りの人に聞こえる位の大きな声で記載事項を読み上げていたのでそれも感じ悪かったです。名前や生年月日は勿論、身長***センチとか、ホント嫌でしたよ。
 何か感じ悪い話ばっかりになっていますね。でも、結局この旅行はこういうマイナスイメージの思い出が何と多いことか。観光で訪れた各国の名所や遺跡の素晴らしさにも勿論感動したのだけど、そういう話よりはたぶん、いえ、きっと、こんな間抜けな話の方が聞いている人には面白いはずです。この旅行に限らず、何か私は、旅行では変なことになってしまいます。そういうことが多いです。
 最悪の事態は、勿論パリでの黒人ドクターの件ですが、旅行前からいろいろ前兆はあったんですね。
 このツアーで利用したのは、インド航空なんです。たぶんツアー仲間たちの殆ど全員がインド航空が嫌いになったと思います。スチュワーデスさんが最後の挨拶で必ず乗客に言う言葉で「またのご搭乗をお待ちしています」というのがありますが、「もう二度とインド航空には乗りたくありません」みんなそう思ったはず、と私は思います。